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2004年 11月 09日
藩政時代より七尾は港を中心に栄えていました。
明治時代に入ってからはも北前船による交易が盛んに行われ、多くの廻船問屋が出現し、七尾の経済を支えてきましたが、大衆の娯楽の中心であった芝居文化を支えてきたのも、こうした旦那衆達でした。 七尾で最も古い芝居小屋は、料理屋兼芝居茶屋だった青海楼(現番伊)の小屋です。開場時期は分かりませんが、興行記録から明治20年代後半までは芝居小屋として機能していたことが確認されています。 芝居茶屋での芝居見物は大衆には高嶺の花だったのかもしれません。府中や作事町周辺の芝居好きな有志が中心になって作られたのが府中の浜(共立商事ガソリンスタンド横)のでか小屋です。明治時代前半に建造されたと思われます。芝居がなければ夜も日も明けぬ。見物席で見ているだけでは満足できず、とうとう一座を組み、小屋で演じるようになりました。でか小屋はそんな場であったと思われます。しかし、趣味や道楽だけでは小屋を維持することができず、明治26年、作事町の有志が演じた芝居がでか小屋の芝居小屋としての最後だったと言われています。 明治35年頃には、島崎市太郎を興行主とした松尾座(神戸川西側スギヨ横)が開場しました。明治38年11月の七尾大火で難を逃れたものの、全焼した小学校の仮校舎に貸し出されたため、芝居小屋としての昨日は3年余りで幕を閉じました。 青海楼の小屋があり、少し東へ歩いていくとでか小屋があり、更に少し行くと松尾座があった。松尾座ができた時には、すでに青海楼の小屋もでか小屋も芝居小屋ではなくなっていたので、三座競演ということにはならなかったが、芝居小屋といえば府中の浜(府中町)といわれていました。 旦那衆や芝居好きな町衆によって支えられてきた芝居小屋も、趣味や道楽の域から興行施設としての機能をより強く求められてきたため、明治時代も終わりの頃になると芝居小屋は地理的条件によい御祓川西地区に移動します。明治43年、三島町に歌舞伎座が開場しました。飛騨高山に千鳥座を移築してきたと言われており、飛騨匠の流れを汲んだ彫刻が施された小屋でしたが、大正4年1月、小屋からの出火で全焼し、僅か5年で幕を閉じることになりました。以後、遊郭街界隈(常盤町)を中心に能登劇場(三島町)、港座(阿良町)が開場されていきましたが、映画の普及とともに、能登劇場は七尾劇場に、湊座は東映・日活劇場へと名を変え、常設の映画館に機能を移し変えていきました。 (参考文献:大林昇太郎「七尾旧話」昭和60年11刊)
by dekakoya
| 2004-11-09 11:21
| ■七尾の芝居文化
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